2016年の目標:毎月のように更新


by dozeutea

おおかみこどもの雨と雪

『おおかみこどもの雨と雪』観ました(7月に)。




劇場で観たときにはとりわけ感動したり興奮したりというのがあったわけでもなくて、とくべつ素晴らしいと思ったところがあった(映像的には素晴らしかったですほんとに)わけでもないのですが、観た後にうまく消化できずによくわからないもやもやとしたものがたくさん残って、このもやもやは何なんだろうと思って自分なりに整理していたら、頭の中でいろいろ豊かに広がっていって楽しませてもらったので、感想というかそのとき考えたことをいくらか書いてみようと思います。

この作品で最も考えさせてくれたのは「花が雪に語ったこと」と「雪が経験したこと」を雪が語るという形をとっていることです。雪の語りはじめ、絵コンテではト書きに「(13歳)」と明示されていて、作中の最後のシーンに同期します。子育てに一段落した母親の花が、家から離れて自分の生き方をはじめた娘の雪に語った話である、ということを踏まえると、描写されるシーンそれぞれについてなぜ花が語ったのか、どう語ったのかについて想像を広げていくことが出来ます。

また、花が雪に語る話は全て幸せの記憶であり、雪の幸せを祈っていることを伝えるための語りであるはずです。そこで語られる苦労や苦悩も全ては雪と雨を愛する故であり、産んだこと悔いる、生まれてきたことを責めるような話がそこで語られているはずがありません。(ゆえに子育ての描写の浅ささが子育ての辛さを表現出来ていない、という批判はナンセンスだと思います)
この語りの時点では既に雪はおおかみとしての苦悩を乗り越えており、自分のおおかみの部分が母にもたらした苦労についての語りは、雪がそれを受け止めるだけの成長があるということを示しているようにも思えます。

序盤、花が校舎内に入る様子を建物の中から捉えている客観カットとおおかみの「彼」が校舎から出て行く背中を見ている花の主観のカットが同ポになっており、ここで「花が語る物語」と(雪が)「花を語る物語」が併存していることを映像でも明示しています。

そして、花が「彼」に想いを伝える「瞬間」は明確に描かれていません(「じゃあ私がおかえりって言ってあげるよ」は「彼」に返事を求めるための言葉に見えます)。ここで、花が雪にこの話を語ったのは、雪が自分の初めての恋心について母に何かしらの相談をしたときだったのではないかと思えました。おおかみであっても人と恋が出来るんだよと娘に伝えるための話だったように思えます(花におおかみの姿を明かす「彼」→秘密を明かしてくれた嬉しさ→草平も雪を受け入れてくれる)。花が(「おおかみは嫌いじゃない」と答えた)草平に「わたしと一緒」とほほ笑んだのに象徴されるように、他人の感情に重なっていくのです。

そこには自分と同じような恋心を抱えた娘に対する母親のスタンス、そして大切な瞬間は自分自身で見つけてほしいという気持ちや照れのようなものなどがあって、花は語らなかったようにも感じられます。
また、13歳の雪は経験はなくても性交渉についての知識はあるため、その様子は想像することは出来る。そのためにその描写が登場したと納得することが出来ます。

この体験を伴わない「知識」というもの、花が出産、子育て、農業、自然について繰り返し本等で勉強をしている様子が出てきます。花にとっては常に「知識」が「経験」に対して先行しているのです。一方、雪は、花から聞く自身の小さいときの話も、男性に恋をすることも、全て知識より先に経験しています。これは雪の経験の重たさを対照することにもなりますが、逆に言えば、雪にとって知識が経験に先行する事柄については未来で実現しないことが示唆されているようにも見えます・・・・。

この経験と知識との関係、作品の度に監督が自身の経験をモチーフとして作っているとを語っていることを考えると興味深いところです。

雪が乾燥剤を食べてしまい花が小児病院と動物病院の前で悩むシーンも、子供を人間と認めきれない、おおかみ扱いをすることよりも、苦労話を笑い話として出来るようになった母と娘の姿を浮かび上がらせます。

明け方の公園で田舎に引っ越すことを決意するまでのAパートが『劇場版デジモンアドベンチャー』と相似した内容になっています。
・冒頭で語り部である太一が輝く草原の上にたたずんでいる
・赤ん坊を他の人間から隠そうとする
・赤ん坊が姿を変えていくことに翻弄される
・夜に鳥を狩りに行き姿を消す(そして日の出を迎える)

一方で対照的になっているのは、
・二人で一匹を育てる
・耳のついたフードを被って外出する
(三毛猫に追い回されるのはおおかみこどもではBパートで雪が追い回し、雨が追い回される、という形で登場)

つまり、『おおかみこども』における自然界=デジタルワールドということに。

『デジモン』でも強調されている夜の街の光と闇の距離感について、夜の街のガラスの向こう明かり(クリーニング屋)の中にいる側だった花が、産婦人科に行く際にガラスの前で中に入ることに躊躇いを見せ、出産後には小児科のガラスの向こうにも入ることも出来なくなります。ガラスの中にいられるのは自宅だけ、そこにもいられなくなっていきます。田舎でもよろずやではガラスの内側には長居しずらく、内側(地元のおばちゃん達)から白い目で見られてしまう。
新しい家も台所にガラス窓があり、花はそこに居場所を見つけます。花は何度もガラス越しに描写され、行き場を探していく。そして雪は雨の中、学校のガラス窓を開けて大きな一歩を踏み出します。母娘の12年間が1枚の窓を開けることに収斂していく様は美しかったです。

同様に花(植物)に囲まれることが幸福を表すものとして反復して使われていたのも印象的でした。一輪の花のささやかな幸せも、たくさんの花に囲まれる溢れんばかりの幸せも肯定していて、幸せのかたちを限定していない、むしろ広げていこうとしているようにも感じられました。


この作品に登場する主要な男性(=花と雪にとって重要な人物)はいずれも「おおかみおとこ」です。「彼」と雨はもちろんのこと、「一匹狼で生きてく」と決意を語った草平、そして怖い風貌と優しさを持った韮崎のじいさん(「老人」=「ろうじん」=「狼人」?笑)。みんな猫背だから、という理由もありますが。草平が学校でその決意を語った瞬間に『おおかみおとこと花と雪』という構造が顕在化します。(これによって「彼」と韮崎の間になにかしらの関係があった可能性も考えたくもなりますが・・・・)
何度も同じことをくり返しながら、男性と関わり、その生きざまを見ていく中で自分も一歩を踏み出そうとしていくの女性の物語として、『スカイ・クロラ』と似ているように感じました(『おおかみこども』もある意味2周目の物語)。世代を重ねながら繰り返していく、変わっていくという部分が大きな違いであると同時に、この作品の魅力でもあるように思います。

作中の大きな事件はいつも花が見ていないところ、目を離したところで起こっています。気付いたときにはいつも手遅れになっている。だから台風の中、花は学校に行ってはいけなかった。
結末について。雪は「今日は家にいなよ」「かあさんといなよ」と雨に言葉をかけるのが別の生き方を選んだ二人にとって最後の会話になります。雨はエンディングで花に声が聞こえる(花の目は届かないけれど)同じ森に生きていることが明らかになる一方、雪は中学校に通うため山の家を離れていきます。実際に遠くに行ったのは雪の方であり、雨は雪の言いつけを守って母と同じ山に生きています。大喧嘩はしたものの、二人は完全に断絶したわけではなく、こうした形で一定の和解が示されているように思いました。


あとは箇条書きでバラバラと。
・「花」という個人を理解するのがこの作品で一番難解。理解しようとするか、理解できないものとして見るか、どちらかを選択しなければならない。明解な記号をいくつも持ちながら記号的でない人物として形成されてしまっている。
・彼の名前は「風」? 冒頭、終盤と風が吹いて花の前に姿を表す
・雨は傘も使わないしレインコートも着ない。Aパートでレインコートは自分の姿(=狼であること)を隠すものとして使われている。自分が狼であることを隠さない生き方をしている。
・花は自然への知識を深めたい、雨にも伝えたい、と言っていたが雨は花を越えて行ってしまった
・油揚げを食べないキツネの先生。人間が持っているイメージとの乖離。おおかみもまたイメージでとらえられないということ。
・雨を追って水たまりに何度も浸かる花。水たまり=雨水。雨の気持ちを繰り返し反芻している
・雪のその後が『ケモノヅメ』だったら悲しい
・嵐が来たら人間関係が回復する系日本の劇場アニメ
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by dozeutea | 2012-09-06 17:40 | アニメ